Friday, November 9, 2007

��集�自��� �名60年、名誉守りたい 元守���“��”�え

「自�命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人��が始まった��の集�自���。住民に集�自�を命じたと�述された座�味�の元守���、梅�裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした�度で"��"を�えた。��がないのに�名を着せられ�けた�後60余年。高�を押して�言台に立ったのは、自分のためだけではない。�念のまま亡くなったもう1人の元守���と旧日本�、そして国の名誉を守りたい一心だった。

 地裁で最も�い202号法廷。梅�さんはグレ�のス�ツに白いシャツ姿で入廷した。�始しっかりとした口�で��に答え、焦点となった集�自�前の状�について�われると、「(村民に�し)�はやれない、死んではいけないと言いました」と��を�めた。

 梅�さんにとって�して忘れることのできない出来事をめぐる�言だった。米�が座�味�に上�する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た�面は�烈な印象として残っている」という。

 大��の��射�と爆�にさらされ、本格的な米�との��に向けて山中の�地で将校会�を�いていた夜、村の助役ら5人が�ねてきた。

 《いよいよ最後の�が来ました。�が上�したら逃げ�はありません。�の足手まといにならないように老幼�女子は自�します》

 助役らは切羽�まった�子でそう言い、自�用の爆�や手榴(しゅりゅう)�などの提供を求めた。�いた梅�さんは即座に断り、こう言�を返したという。

 《自�することはない。われわれは�うが、村民はとにかく生き延びてくれ》

 �後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、�刊�に「梅�少佐が自�命令を出した」と�じられた。そして、�後まもなく�行された����『�の暴�』(��タイムス社)で��命令�が�述され、��の文献などに引用されていることを知った。

 「お国のために�ってきたのに、なぜ事�がねじ曲げられるのかと愕然(がくぜん)となった。屈辱、人�不信、孤独…。人の�を�ることがつらく、家族にも肩身の狭い思いをさせた」

 ��が�れたのは57年。�没者慰�のため座�味�を�れた�、米�上�直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。�後、集�自�は��命令だったと述べていた女性は苦しみ�けた胸の内を吐露し、「��は自�してはならんと明言した」と真相を�言してくれた。

 さらに62年、助役の弟で�後、村の援��を�めた男性が「集�自�は兄の命令。(��病者�没者�族等援�法に基づく)�族��を得るため��命令にして申�した」と述べ�ったという。

 「彼から『�が裕福になったのは梅�さんのおかげ』と感�もされた。ようやく��が�明され、これで世�も治まるだろうと思った」

 だが、��命令�は消えなかった。大江健三郎氏の著�『��ノ�ト』など多くの�物や教科�、さらに映画などでも��命令�が描かれた。梅�さんはいう。

 「�争を知らない人たちが真�をゆがめ�けている。この裁判に�たなければ私自身の��はない」

0 Comments:

Post a Comment

Subscribe to Post Comments [Atom]

<< Home